こんにちは!ぴのかん@Pinocanです。
先日の書いた「タブー」という言葉の意味解説記事↓を書いていた時
「あ、これは・・・“もののけ姫”のアシタカの物語だ!」
と思い、それについて考察してみたくなりました!
ご存知の通りアニメーション映画『もののけ姫』はスタジオジブリの大ヒット作品のひとつです。
監督の宮崎駿氏はこの映画の中で、いくつかの「タブー」を意識的に取り入れていて作品を創り上げています。
そのあたりをタブー(禁忌)の言葉の意味を考えながら考察してゆきたいと思います。
タブー(禁忌:きんき)とは?
タブー(英語:taboo)
1 聖と俗、清浄と不浄、異常と正常とを区別し、両者の接近・接触を禁止し、これを犯すと超自然的制裁が加えられるとする観念・風習。また、禁止された事物や言動。未開社会に広くみられる。禁忌。禁制。
2 ある集団の中で、言ったり、したりしてはならないこと。法度(はっと)引用元: 大辞林 第三版より
古来より人々の生活の近くには様々なタブー(禁忌)がありました。
特に自然と共生していた民族や地域には、多くの神話や伝説があり、それに伴うタブー(禁忌)も多く存在していたと思われます。
ジブリ作品の中でも、タブーを扱う作品がいくつかありますが、中でも「もののけ姫」は、日本の北の地方と思われる森を舞台に、その風土独特の慣習や掟が支配する世界で繰り広げられる物語です。
映画「もののけ姫」とは?
映画「もののけ姫」概要
1997年に公開されたスタジオジブリ制作、宮崎駿監督による長編アニメーション作品。
宮崎監督が構想16年、制作に3年をかけ、使用した作画枚数は約14万枚と、それまでの長編作品の2倍以上をかけた大作です。
一部に3DCGの技術を取り入れ始めた作品であると共にフルセル画の作品としてはジブリ最後の作品となりました。
あらすじ
エミシの村のアシタカは将来族長となるために育てられてきた冷静沈着で聡明な青年でした。
ある日、深手の傷を負ったイノシシが荒ぶる神(タタリ神)となり村を襲います。
村人たちを守るためにアシタカはタタリ神を仕留めますが、その報いとして「死の呪い」をかけられ腕にはアザが残ります。
災いを受けたアシタカは、その呪いを癒すために西の国へと旅立ち、その旅の途中で訪れたタタラ場で山犬と共にタタラの村を襲ってきた一人の少女サンに出会います。
森を崩し、木を伐り、自然を破壊する人間たちを憎む動物の一族、それに対しタタラ場で鉄を製造しながら暮らすエボシとタタラ場の民衆達「不老不死」の力を得るためシシ神の首を狙う輩たちと様々な勢力がせめぎ合う中アシタカとサンの運命も翻弄されてゆくのでした。
「もののけ姫」における3つのタブー
宮崎駿監督が「もののけ姫」の中に取り入れた3つのタブー(禁忌)をそれぞれ考察してみましょう。
- アシタカが犯した“神殺し”のタブー
- タタラ場の女人たちにまつわるタブー
- シシ神の首を切り落としたタブー
アシタカが犯した“神殺し”のタブー
「もののけ姫」の中の1つ目のタブーは荒ぶるタタリ神を仕留めたアシタカの「神殺し」という行為です。
なぜ、タタリ神を殺すことがタブーなのか?
タタリ神とは
村を襲ったのは、エボシが鉄のつぶてを撃ち込み怪我を負わせた巨大なイノシシの神(ナゴの守)でした。
ナゴの守は「人への憎しみ」と「死への恐怖」に支配され恐ろしい荒ぶる神となり人間を襲う「タタリ神」と化してしまいます。
自分の村と村人たちを守るためにアシタカはそのタタリ神に矢を撃ち込み、いわゆる『神殺し』のタブー(禁忌)を犯すことになります。
本来なら、
「神聖なもの(もしくは不浄なもの)」
に対して矢を引いてはならず、そのタブーを破ることは何らかの「罪」を覚悟しなければなりません。
アシタカは村人たちを命を救うのと引き換えに自らの腕にアザを負い「死の呪い」をかけられてしまいます。
呪いを受けた者は村に災いを招く者として、その場所で暮らしていくことはできません。
老巫女(シャーマン)が伝える村の掟により結っていた髪を切り落し誰の見送りもなく、その場から立ち去らなくてはいけませんでした。
アシタカの本来の名は「アシタカヒコ」 と言いヒコ(日子)という神の子を意味する文字は、この時から除かれ「アシタカ」と名乗るようになります。
アシタカが背いたタブー
タブー(禁忌)とは、民族やある特定の地域に伝わる慣習や掟であり
「神、または神のおわす場所に立ち入ること、また神が宿るとされる物、人などに触れたりすることを禁じる風習」
の意味があります。
そのタブーの中でも『神殺し』は、その神聖なる象徴の「神」を殺してしまう・・・言外の「罪」を犯してしまったことになります。
また、このタブー(禁忌)の興味深い点は「神聖なもの」と「不浄なもの」の両方に使われることです。
つまりこれは前述したタブーの「神⇔不浄」と入れ換えることもできます。
タタリ神(不浄なもの)を殺してしまったタブー
前項までに解説した「神」を「不浄」と置き換えた場合、タブーの意味は
⇒不浄な場所に立ち入ったり、不浄な物・人などに触れたりすることを禁じる風習となります。
アシタカが殺したタタリ神は「神」と名前はついていますが「人への憎しみ」と「死への恐怖」という“負の念”が凝り固まってできた「荒ぶる神=祟り神⇒不浄なもの」となります。
よって「タタリ神と闘い、殺す」行為をしてしまったアシタカの身体はタタリ神=不浄のものと関わったことから穢され古より伝えられた通り
- 腕のアザ⇒己の憎しみや怒りなどの”負の念”によって拡がり、暴れる。
- 死の呪い⇒痣が全身に拡がり、いずれ死を迎える。
- 村からの追放⇒二度と戻ることは許されぬ。
などの罪を負うことになったのです。
タタラ場の女人たちにまつわるタブー
2つ目のタブーは本来なら「女人禁制」であるはずのタタラ場にエボシ御前が女衆を入れたことです。
タタラ場とは
日本におけるタタラ製鉄とは、古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。
砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。
>wikipediaより
映画「もののけ姫」の中ではエボシ御前と呼ばれる女性が鉄師(タタラ場の首領)となりタタラ製鉄を営む集団で村を形成していました。
鉄の原料となる「砂鉄」を採るために山を削り燃料の「木炭」を作るために木を伐り一度の製鉄で「約5tの鉄」を作るためにふたつの山が失われたと言われています。
なぜ、タタラ場は女人禁制なのか?
中世に入り製鉄技術が「足鞴(あしふいご)」から「天秤鞴(てんびんふいご)」へと進化し労働への負担が軽減されたとはいえタタラ場で働くことは男衆であっても、かなりの重労働でした。
その理由の他に一般的に男性中心の世界であったのはタタラ場には古より「女人禁制」というタブー(禁忌)が存在していたからです。
タタラ場で祀(まつ)られている鉄の神は「金屋子(かなやご)」といわれる女神でした。
その金屋子神は年頃の女性に嫉妬するという言い伝えからタタラ場で飯などの給仕をする女性は幼女か老婆とされていたと言われています。
そのようなタブーがあるにもかかわらず女衆達をタタラ場に入れたのはエボシ御前の「古い慣習」や「迷信」などにとらわれない「先進的な思想」によるところでなのでしょう。
シシ神の首を切り落としたタブー
3つ目のタブーはエボシ御前が森の神である「シシ神」の首を切り落としたことです。
シシ神とは
⇒森や動物、人間を含む”自然界”を司る神。
昼は人面を持つアカシシの姿をし夜にはディダラボッチという半透明の巨人の姿に変わり森を徘徊します。
ディダラボッチとは
古来より日本各地で伝い伝えられる巨人のことで元々は「国づくりの神」に対する巨人信仰がディダラボッチ(ダイダラボッチ)伝承を生んだとされています。
柳田國男が執筆した『ダイダラ坊の足跡』では日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており、その中でダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に「法師」を付加した「大太郎法師」で一寸法師の反対の意味であるとされています。
例えば、ダイダラボッチが富士山をつくるために甲州の土を掘って土盛りしたため甲府が盆地になった、とか。
なぜエボシはシシ神の首を切り落としたのか?
シシ神の首には「不老不死」の力が宿っていると信じられていました。
中央の政治を行う天朝(天皇)の命により「師匠連」という秘密結社のような組織がジゴ坊に依頼したとされています。
「石火矢衆」や「唐傘」などの傭兵集団の頭であるジゴ坊は、タタラ場のエボシ御前に話しを持ち掛け「森に居る、もののけ達の力を削ぎ、タタラ場の運営と安全を確保したい」というエボシの利害も一致したためジゴ坊達と協力することになります。
しかしながら、やはり「神に対する冒涜」というタブーを恐れるジゴ坊達はシシ神への攻撃をためらいますが常々古い慣習や迷信を信じないエボシ御前は迷うことなくシシ神の首を切り落とします。
エボシ御前達が犯したタブーはアシタカが破った「不浄なもの」のタブーとは異なり自然界を司る神という「究極の神聖なる神」の首を切り落としたまさに「神殺し」そのものでありました。
その畏れ多い禁忌を犯した報いは人間のみならず自然界に住む全ての生き物、植物までに及びました。
「神殺し」とは
宮崎監督が「もののけ姫」の中で扱った「神殺し」には元になった物語があります。
これは、メソポタミア文明時代に書かれた『ギルガメッシュ』という人類最古の叙事詩です。
古代ウルク王国の王ギルガメッシュは親友と共に人間の世界を広げるためレバノン杉の原生林を伐り開くことにしました。
これに怒った「半身半獣の森の神フンババ」は凶暴な姿となってギルガメッシュ達を襲いますが、ついには首を切り落とされてしまいます。
しかし「神殺し」の代償として親友を失ったギルガメシュは死の世界を目指し旅立ちますが何の成果も得られずに絶望の果てに故国に帰還することになります。
ギルガメッシュは神を殺し人間だけの国を作ろうとした己の傲慢さを恥じ自然破壊や生命操作は「破滅の道」となると遺言して、この世を去ったと伝えられています。
>参考引用:「もののけ姫」の基礎知識より
生と死を併せ持つディダラボッチ
(アシタカ)シシ神よ――
首をお返しする 鎮(しず)まりたまえ!#kinro #もののけ姫 #シシ神 #アシタカ #サン #ディダラボッチ pic.twitter.com/a3oFPDORb4— アンク@金曜ロードSHOW!公式 (@kinro_ntv) 2018年10月26日
首を失い天空を覆う巨大な闇となったディダラボッチは周りのもの全てを破壊しながらタタラ場へと迫ります。
ジゴ坊から取り上げたシシ神の首をディダラボッチへ差し出し鎮まるように呼びかけるサンとアシタカ。
荒ぶるディダラボッチは、ふたりからシシ神の首を受け取り、そしてその時ちょうど昇って来た朝陽を浴びてその身体は崩れ落ち、その破片は一陣の風によって一帯に舞い散りました。
その「ディダラボッチの破片」が地下の浸透したことにより辺りは再び緑に覆われ森に生命の息吹が戻ってきます。
このように人間や動物、植物たちのどちらに味方することもなく全てを滅ぼす「死」の力と再生できる「生」の力の両方を併せ持つディダラボッチは「神」というよりも「自然そのもの」なのかもしれません。
タブーの報いを受けた人間たちは
タタリ神を殺したタブーにより「死の呪い」という報いをうけたアシタカ。
しかし、ディダラボッチへシシ神の首を還すことにより身体中に広がっていた穢れは消え、その腕のアザは薄くなります。
アシタカとサンの命をかけた願いがシシ神の心を鎮めアシタカの「死の呪い」をも消し去ってくれたのでしょう。
しかしながら、なぜアザはそのまま薄く残されたのか?
これは「自らが犯したタブー(禁忌)を忘れない為」の戒(いまし)めではないか、と思われます。
アシタカのみならず、タブーを犯した者達は、なんらかの「報い」を受け、そしてその後も、その事実は消えることはありません。
シシ神の首を切り落としたエボシ御前は片腕を失くし、
ジゴ坊をはじめとする傭兵集団も多くの死者を出しました。
破壊された森に生命の息吹は戻りましたが、元の姿には程遠い様子。
しかしながら、これは・・・「死」と「再生」を繰り返しながら、
様々な「報い=罪」を背負いながらも
しつこく、這いつくばって生きてゆかねばならない
人間や動物、植物などの、すべての命あるものへの
“ 生 き ろ ”
というメッセージなのかもしれません。
(サン)アシタカは好きだ
でも人間を許すことはできない
(アシタカ)それでもいい
サンは森でわたしはタタラ場で暮らそう
共に生きよう#kinro #もののけ姫 #サン #アシタカ #ヤックル #山犬 pic.twitter.com/tdAmEAMba2— アンク@金曜ロードSHOW!公式 (@kinro_ntv) 2018年10月26日
「もののけ姫」にまつわるタブー考察まとめ
今回は映画「もののけ姫」の中にみる3つのタブー(禁忌)について考察してみました。
世界各地にも多くみられるタブーですが宮崎駿監督は本作において日本各地の神話や伝承を意識してタブーを描いています。
あらゆる禁忌の中には神聖なるものと不浄なるもの、生と死、滅びと再生、など相反するものが含まれ、それらをすべてを内包する自然界を舞台に繰り広げられる「もののけ姫」の物語。
・・・・・・あなたはこの物語のタブーを
どう読み解きますか?
また、様々な「言葉の意味」から、大好きな作品達へアプローチできたら・・・と思います。
今回も長文記事ご拝読いただきまして、ありがとうございました☆